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40鳴海~44石薬師

[ 2022 07 16~ ]

■40[鳴海 名物有松絞](名古屋市緑区)



[ 鳴海 名物有松絞 ]


池鯉鮒宿と鳴海宿との間にある有松は、有松絞といわれる染め物の名産地で、街道沿いに立派な二階建ての商家が立ち並んでいます。
店の中は積まれた反物の前で商談中で、その前を杖を持つ二人の女性と駕籠に乗った女性が通り過ぎようとしています。
その後ろにも馬の背に女性が乗る姿があり、女性で賑わう街の様子が描かれています。



[ 鳴海 有松の家並(2022 07 16) ]


有松は 池鯉鮒宿と鳴海宿の間にある茶屋の集落でしたが、手ぬぐいに絞り染めを施した有松染めで有名になりました。
1784年に大火がありましたが、藩の援助を受け防火に考慮して再建された建物が今日まで残されています。
絞りを扱う商家のゆとりある構えが続く家並は、2012年に無電柱化が完了し2016年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
防火対策として漆喰の塗籠造りが多く、大きな虫籠窓も特徴的です。
道幅は5~7m程度(3~4間)ですが、両脇は石張り風に仕上げられ歩行者優先を意識させる造りになっています。
広重の絵では建物の前や間に樹木が描かれていますが、現在は空いているところは駐車場に使われ、木の緑が見えても塀の中から外に張り出している程度で、建物や塀が連続しています。



[ 有松 伝統的建造物(右)とそれ以外の建物(左)(2022 07 16) ]


有松は重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けていますが、伝統的建造物として残されているのは街並みの長さの2,3割程度です。
歴史的な雰囲気が強く感じられるのは、間口が大きく豪壮な絞商の屋敷は街道に面して主屋や土蔵を並べているため、視界に大きく広がる伝統的建物が古の雰囲気を強く感じさせるようです。
また、伝統的建造物以外でも歴史を感じさせる建物があり、伝統的な街並みの景観に溶け込んでいるところもあります。
さらに、新しい建物でも、なまこ壁や塗籠を思わせるように外装を仕上げたり、虫籠窓に近いデザインの窓を備えている建物もあります。
おかげで有松は、伝統的建造物の割合に比べて伝統的な街並みが長く続いている印象があります。



[ 有松 桶狭間古戦場公園(2022 07 16) ]


有松の南、土地区画整理行われた住宅地の中に、織田信長が今川義元に勝利した桶狭間古戦場の公園があり、「今川義元戦死之地」と彫られた石碑が立っています。
公園の中に桶狭間の戦いの状況を記した案内があり、近くに今川義元と織田信長の本陣があったと説明されています。
桶狭間古戦場公園のほかにも、中京競馬場駅の近くに桶狭間古戦場伝説地がありこちらには「今川治部大輔義元の墓」があります。
桶狭間古戦場公園は名古屋市の公園、桶狭間古戦場伝説地は豊明市の国指定史跡であり、古戦場であったことを両市が競い合っているようです。
桶狭間古戦場公園も桶狭間古戦場伝説地も周囲は建物に囲まれ、多少の土地の起伏は感じられますが山に挟まれた”狭間”の雰囲気は残されていません。
桶狭間は映画やTVドラマで見るような合戦場を想像していると、大いに期待を裏切られるところです。


■41[宮 熱田神事](名古屋市熱田区)



[ 宮 熱田神事 ]


熱田神宮の大鳥居の前で馬を奉納する神事が行われ、同じ模様の袢纏を着た二群の男たちが馬を引き走り過ぎようとしています。
後ろでは焚火の横で旅人が祭りを眺める姿もあります。



[ 宮 熱田神宮の鳥居(2022 07 16) ]


現在の熱田神宮は正門から入ると3つの鳥居がありますが、[宮 熱田神事]の鳥居は大きさからみて正門の一の鳥居だと思われます。
熱田神宮正門の鳥居は、神明系といわれる下段の横木(貫)が柱から飛びださない鳥居ですが、描かれているのは貫が柱を貫通して飛び出し、上段の横木が笠木と島木の2層構造になっている明神系の鳥居のようです。
歴史ある熱田神宮の鳥居の形が変化したのか、広重が現地を見ずにどこかの神社を参考にして描いたのかのどちらかです。
現在は一の鳥居の前は駐車場なので茶屋どの建物はなく、敷地の外には飲食店がありますが、神宮の敷地とはしっかりとした石積みで仕切られているので、[宮 熱田神事]のように鳥居の近くに茶店が見える構図は採れません。



[ 宮 国道1号(2022 07 16) ]


熱田神宮の正門から南にある七里の渡しへ向かう道がありますが、現在は国道1号など幅の広い幹線道路で分断され、まっすぐに行くことができません。
このため熱田神宮から”ひつまぶし”で有名な「あつた蓬莱軒 本店」へ行くには、横断歩道橋を渡らなければならず大変不便になっています。
旧・東海道の宮~桑名の主要な交通手段が、海路から陸路に変わった影響がこんなところにも出ています。



[ 宮 七里の渡し跡(2022 07 16) ]


七里の渡し付近の堀川の様相も大きく変わっています。
江戸時代の新田開発や明治期以降の工場用地造成の埋立てなどにより、堀川が長くなり海が遠くなりました。
広重が描いた頃は堀川の両岸に水田が広がっていましたが、今では大小の工場に住宅が混ざり、堀川には桟橋が造られプレジャーボートが係留されています。
堀川は名古屋城への物資輸送のために造られた川ですが、東京や大阪などにある川と同じように水は汚れ自動車交通の邪魔者扱いされてきました。



[ 宮 堀川 桜橋~中橋(2022 07 18) ]


最近は、東京の神田川では上空を覆う首都高の地下化が進められ、大阪の道頓堀は川沿いに歩行者デッキが設けられるなど、各地で川の扱いが変わってきました。
堀川でも治水工事とともに水辺に親しめる工事や修景が行われつつあります。


■42[桑名 七里渡口](三重県桑名市)



[桑名 七里渡口  ]


宮から桑名までの海路を走った船が桑名の港に着き帆を下ろし、荷を満載して湊を出た船が沖で帆を大きく広げ宮へ向かっています。
桑名港に入る船の後ろには、海に向かって突き出している桑名城の櫓と石垣が無彩色で描かれいます。



[ 桑名 七里の渡し跡(2022 07 17) ]


現在の七里の渡し口跡は、高潮に備えた揖斐川の堤防で閉め切られ開口部には水門があるので、[桑名 七里渡口]のように大きく外に向けて開いてはいません。
桑名城は江戸時代の大火や明治維新の戦乱により現存するのは石垣のみで、現在、七里の渡し跡にある蟠龍櫓は外観を復元した鉄筋コンクリート製の水門管理棟です。
桑名城の堀には多くの釣り船が係船しているので江戸時代の石垣はよく見えません。埋められて陸地化した堀もあるので石垣が残っているだけでも幸運です。
桑名城の堀は埋められて道路や公園のほか宅地になった土地もありますが、地図や空中写真を見ると名残があります。
埋立てにより陸地になったにもかからず、道路になったのは橋が架かっていたところだけで、そのほかは公園や宅地が連続しているので堀だった頃と同様に迂回しなければなりません。



[ 桑名 桑名城の石垣(2022 07 17) ]


現在の桑名に港はなく、揖斐川に通じる水路に釣り船やプレジャーボートが係留しているだけで、交通手段は陸路の車と鉄道が主体です。
国道1号は旧・東海道と並行するように鈴鹿峠を越えるルートですが、JR東海道線と新幹線、名神高速道路は関ヶ原を越える中山道ルートで桑名から遠く離れたルートです。
明治初期の東京~大阪を結ぶ鉄道ルートの検討では中山道沿いが有力なルートでしたが、その後の工事費の検討で高価なことが明らかになったため東海道沿いが主体となりました。
しかし名古屋~大阪は中山道沿いの関ヶ原ルートが安価なため中山道ルートとなり、東海道線は旧・東海道沿いと中山道沿いの双方を取り入れた折衷案となりました。
最も新しい新名神高速道路は旧・東海道に近いルートですが、建設費用だけでなく、災害などで道路が寸断されても生活へ与える影響を緩和できるよう、ダブルネットワークとなるルートとして決められたようです。


■43[四日市 三重川](三重県四日市市)



[ 四日市 三重川 ]


四日市宿の近くを流れる三重川の河口付近を渡る旅人が、風に飛ばされた編笠を懸命に追いかけています。
柳の枝のしなり具合や、橋の上を歩く旅人の道中合羽の様子が風の強さを現しています。



[ 四日市 三重川(2022 07 17)]


三重川は現在の三滝川といわれています。
[四日市 三重川]の絵は川の中へ向けて土手が出っ張っていますが、現在の三滝川は堤防が築かれ、水が流れる断面を保つためコンクリートの護岸が施され、流れの障害になるものはありません。
海面が埋め立てられ工場が進出すると自然の海岸線はほとんどなくなり、三滝川の下流は船の帆柱に代わって煙突や高圧線鉄塔がいくつも立っています。
四日市は太平洋ベルト地帯構想の一環として、1960年に石油化学コンビナートが建設されましたが、同時に四日市ぜんそくに代表される公害の被害が広がり、四日市に悪いイメージを持った人も多いはずです。
今日までに環境関連の法整備が進み汚染防止技術の向上などにより、コンビナート周辺の大気状態は大いに改善されてきました。
最近では、コンビナートに灯る明かりのある景観を目的に訪れる観光客もいます。



[ 四日市 幅70mの駅間通り(2022 07 17) ]


四日市にはJRと近鉄が乗り入れていますが、駅は別々にあり両駅を戦災復興土地区画整理事業で造られた幅員70mの中央通りが結んでいます。
中央通りは近鉄四日市駅より西側にも都市計画決定されていますが、駅西側の開発が進んだのは1980年以降で約1.5kmのうち半分は影も形もない様子です。
1956年までは近鉄名古屋線が諏訪神社の西側で直角に東へ曲がり、中央通りの北側を走り、現在のJR四日市駅付近で直角に南へ曲がり、JR四日市駅の西隣に近鉄四日市駅がありました。
諏訪神社の南には近鉄諏訪駅があり、当時の三重交通湯の山線と三重交通内部線も乗り入れていた最も繁華なところでした。
近鉄名古屋線の二か所の直角曲がりを解消した結果、現在の線路の形になり近鉄とJRの駅が離されてしまいました。
繁華街だった諏訪駅周辺は、現在は近鉄線、中央通り、国道1号、諏訪神社に囲まれ、ほとんどの道にアーケードが架けられ、ほかの街区とは違った雰囲気があります。



[ 四日市 アーケードのある旧・東海道(2022 07 17) ]


この街区を通る旧・東海道にもアーケードが架けられ、江戸時代の街道だったことを示すものは「東海道」と染め抜かれた幟くらいです。
アーケードがあれば、雨が降っても風が吹いても傘をさす必要がなく、帽子も飛ばされるこもなく、安心して歩くことができます。
この街区にもマンションの波が押し寄せ、マンションの壁とアーケードの間に広い隙間ができ、商店街としてのまとまりが失われつつあります。


■44[石薬師 石薬師寺](三重県鈴鹿市)



[ 石薬師 石薬師寺 ]


石薬師寺の横には農家らしい藁屋根の家並が続いています。
寺の前には馬子が引く馬の背に旅人が一人、稲刈り中の田んぼの道を寺に向かってもっこを担ぐ農夫が二人。



[ 石薬師 石薬師寺(2022 07 18) ]


[石薬師 石薬師寺]を見ると平坦な地形のように描かれていますが、石薬師寺は鈴鹿川の河岸段丘の上面にある石薬師宿から段丘を下る坂の途中にあり、脇を通る旧・東海道は坂道になっています。
また、寺の前には稲を刈り終わった田に稲わらが積み置かれていますが、現在のお寺のまわりは家屋が立ち並び水田は見当たりません。
石薬師寺の後方に描かれていた巨大な山々も見えません。



[ 石薬師 杖突坂の急勾配(2022 07 18) ]


石薬師寺がある段丘斜面はなだらかな斜面ですが、四日市宿から石薬師宿の間にある河岸段丘を乗り越える杖突坂は急坂です。
「急勾配」を示す黄色い標識がないので公式の勾配は分かりませんが、30mほどの高低差を一気に上るため、道には20%を越える勾配がありそうです。
鈴鹿川中流の左岸側は、鈴鹿川とその支川による段丘が高低差のある複雑な地形を創り出しているので、道は上り下りが頻出し足を使う旅人には厳しい道です。



[ 石薬師 石薬師寺の参道(2022 07 18) ]


石薬師宿は鉄道の駅からも国道1号バイパスからのはずれたため、静かな佇まいですが建物はほとんどが建て替わっています。
京都寄りの次の宿である庄野宿とは3kmほどしか離れていませんが、双方とも小さな宿場でしたが併存していました。
石薬師宿が置かれたのは1616年、庄野宿は1624年なので東海道の宿場としては後発ですが、この近い距離に宿場を置いたのはどんな理由があったのでしょうか。
石薬師寺は西国薬師第33番霊場と掲げられている小さなお寺です。
江戸時代の境内の様子はわかりませんが、今の石薬師寺は、南門から本堂に向かう参道の両側にモミジが植えられているので、秋には紅葉のトンネルを通ってお参りができそうです。




<参考資料>